Title 株式会社における所有 :「所有と経営の分離」論ノート

-->

Hokkaido University Collection of Scholarly and Academic Papers : HUSCAP

Instructions for use

Title

株式会社における所有 :「所有と経営の分離」論ノート

Author(s) 森, 杲

Citation

北海道大學 經濟學研究 = THE ECONOMIC STUDIES,

28(4): 1-48

Issue Date 1978-11

URL

http://hdl.handle.net/2115/31431

Rights

Type

bulletin

Additional

Information





1 (791)

株式会社にふミける所有

一一「所有と経営の分離」論ノート

一一

森呆

株式会社の資本は二重の存在をあた えられている。それは一方で、は生産過

程で機能する現実資本であり,他方では株式証券に均等細分され,証券市場

で転々売買される擬制資本である。

この場合,擬制資本たる株式証券が誰の所有に属するかは,あきらかであ

る。わが国の民法

206 条における,

r

所有者ハ法令ノ制限内ユ於テ自由ニ其所

有物ノ使用,収益及ヒ処分ヲ為ス権利ヲ有ヌ」との規定が,近代的所有権の

内容を表現しているとするなら,株式の所有関係のなかに,その内容を犯す

ものは存在しなし、。内容を犯していないばかりか,株式の所有とその取引の

性格は,今日でも完全競争市場の原理を最も典型的に示すものだと,一般に

理解されている。

他方,現実資本にたいする所有はどうであろうか。株式会社の現実資本の

所有者は誰なのか。

常識論は通常それを,個々の株主に帰属するものとみなしている。株式は,

現実資本の所有権を無数に細分した ものであるから,個々の株主が所有する

株式は,現実資本にたいする各自の持分を意味する。解釈法学上も,会社資

本は法形式からいえば法人たる会社 じたいの所有に属するが,実質的な意味

においては株主がその持分に応じた 会社所有者だと解するのが,定説だとい

ってよいであろう。

アメリカ経営学の主流にみられる所有と経営の分離論一一論者により所有

と支配の分離,資本と経営の分離,出資と経営の分離,資本と管理の分離な





2

(792)

経済学研究第

28

巻第

4



ど,さまざまに称ばれるがーーも「

所有ユについての理解にかんして,

大方

はそうした常識論をで、ていないよ

うに忠われる

O

彼らは所有そのものについ

ろ所有から分離され,

したがって所有者



J



i

支配」の性格や構造のほうに,も

O

それが,所有者利害(=利

i

間目的〉を超

営者支配論を生んだことは,周知の

とお

的所有だという理解は,それだけで

はま

式会社の資本の二重化の意義を不問

にし

z

りたっているものにすぎなし、。現

実資本としての存在と擬制資本とし



の存在を同ーのレベノレにおき,事

実上,現実資本が直接に細分されて

個々人

の手もとにあるかのような見方にと

どまるものといえよう。再生産過程

にお

ける現実資本が物理的に細分しえな

いのに,それにたし、する所有権が

細分化

されて同時存在しているのは,固有

のメカニズムが介在し

τ

いるからこそで

あり,株式会社においては,現実資

本から区別される擬制資本の成立が

その

メカニズムを表現している

o

¥,、し、かえれば,擬制によって

しか私的所有の原

理にもとずく会社所有の表現ができ

ないのが,株式会社所有なのである



生産手段の私的所有がブノレジョア

的生産関係の中枢をなすということ

は,

そもそも私的所有が擬制によってし

か貫徹しえぬもので、なく,生産手

段との

直接的な関係において,占有と対立

する概念として確立したところに,

その

根拠をもっ

O

所有と経営の分離論は,かかる私的

所有じしん,または私的所

有関係に凝縮して表現されている資

本の,歴史的な変化を根底におかぬ

り,現象記述の域をでることができ

ないであろう。

n

鈴木芳徳「証券市場と歴史の逆説

J

(f

商経論叢

1



13



2

号,

1977



12

月〉を参

照せよ。

2)

たとえば,大隅健一郎「株式会社法

J

有斐閣,

1953

年,

148

頁。また富山

康吉『現代資本主義と法の理論』法

律文化主

f:



1969

年,

93

頁以下をみよ。

3)

アメリカにおける「所有と経営の分

A.A.

パーリ

"'.'G.C'

ミーンズ「近代株式会社と私有財産

(1932

年〉には,所有または所有





株式会社における所有森

3 (793)

権じしんの歴史的変化について,彼らなりのたちいった理解,主張がみられる

(1 司書の第 1 :篇 1 , 4 , 6 章,第 2 篇,第 4 篇など〕。

ノミーリ・ミーンズによれば,産業革命前の企業主は,企業のいわば収益権能,

支配権能(この二つの用語は大隅氏の前掲書から筆者が借りたもので,バーリ・

ミー γ ズじじんのものでなし、〉と生産機能とを併せもつでいた。産業革命後,そ

れら権能は,収益・支配権能をもっ「所有者」と生産を主導する「雇用経営者」

に分れる。株式会社制度のもとでは,経済力の集中と所有権の分散にともない,

「所有者」にたいしては,消極的財産Passivepropert古(株式)が帰属するのみ

となった。生産にかんする物的手段つまり積極的財産Activepropertyは,もは

や所有者に帰属しない。積極的財産は実質的に所有概念の適用からはず、され

p



有者から分化し独自化した「支配者」の領域に属するものとなる。パーリ・ミー

ンズの理解は,以上のようなものであろうと思われる。彼らは資本の二重化を,

消極的財産・積極的財産として£らえつつ,じかし「所有 j をあくまて明有権

owner5hip'としてー完的にみるから,二重化した資本の一方(積極的財産}は

「所有」から分離されざるをえない。彼らの理解は,株式会社〈現実資本〉を社

団でなしに契約関係としてとらえる 英米法の伝統に沿ったものであり,わが国の

ふわゆる株式債権説にも近似するも のといえよう。ともあれ,アメリカの「所有

と経営の分離」論史には,ノミーリ・ミー

ν ズ以降,

r

所有」の意味やその変化につ、

いての議論の発展はなかったと忠わ れる。議論されたのは,所有から分離された

「支配」の方であった。

上のように現象記述の域をでなし、

所有と経営の分離論にたいする批判

は,

従来主として,経営(経営者〉ぺの十大株主の究極的支配を強調する方向でお

こなわれてきた

O

株式会社はほんらい的に,少数株の

所有によってより大き

な現実資本を支配する機能=支配集

中機能をもつものであるから,株式

所有

の分散は,所有が経営・支配の場か

ら消えることでなく,ぎゃくに少数

の所

有者の手により大きな富が帰崩する

ことを意味する。周知のようにバーリ・

ミーンズ的な「分離」論の系譜をひ

く論者たちが,総じて株式所有を個

々人

の所有株の量と比率の次元で問題に

するのに対しで,批判者たちは,同

族所

有,資本集団内の会社問所有,金融

機関の影響などふくめて,所有・支

配の

全構造の解明の必要を力説してきた

。諸々の「分離」論を克明に検討し

た村

田稔氏は,

1

経営者支配においては,まさに支配

の定義が決定的な意味をもっ」

とのべているが,

1

分離」論者のみならず批判者のほう

もまた

J誰が会社を支





4

(794)

経済学研究第

28

巻第

4



配するか」を焦点とした議論をして

きたのである。それが大株主の究極

の支

配の強調に帰着するかぎりで,所有

との「分離」はむろん否定されるわ

けで

あるが,そのさいに所有そのものの

吟味が十分なされてきたとはいえな

い。

最近,邦訳刊行された

R.

フィッチ・

M.

オッベンハイマーの『誰が会社を

物になると,所有じしんへの配慮は

皆無に

の支配者が経営者でなしに外部重役

・金融

けられているようにみえる

O

かかる観点

R.

A.

ゴード

γ

の所論のように,

1

経営者

支配」から区別して,経蛍の重要な

諸決

・リーダーシップ」の,経営者への

帰属

1

支配の定義が決定的な意味をもっ」

ようなかたちで,

議論が展開されてきたのである。

そのようなわけで,

1

分離」論.

I

経営者支配」論への批判者たちが,

株式

会社所有についてどういう理解にた

つのかは,かならずしもあきらかで

なし、。

付度するに二様の考えがありうるの

ではないかと思う。ひとつは,個々

人の

株式所有をそのまま会社資本への部

分的所有とする前提からの,支配メ

カニ

ズムへの言及である。

P.M.

スウイージーは,かつて大株式会社

において,

「現実に起こることは,大多数の所

有者からは支配権が奪われて,それ

が少

数の所有者の手にのこるということ

であるりとのベ,

1

資本にたし、する支配

の集中は,所有の集中を限度とする

ものでない」という意味においての

み,

「所有と支配の分離」と

L

、う用語を容認しうると書いた。つ

まり,大多数の

株主が奪われるのは,1所有」では

なくて「支配」のほうだということ

になる。

この見解は,スウイージーのみなら

ず「分離」論批判者の大多数が,暗

にもつものといえよう。

しかし他方,彼らの中につぎのよう

な見解もありうるように思われる。

なわち,個々の株主の持分は,その

まま会社資本の所有を意味するもの

い。近代的所有権の内容が使用,収

益,処分の総体である以上,株式会

の真の所有は,実際にその会社を支

配するに足る株式の持分にこそ,認





株式会社における所有森

5 (79 5)

れるべきものである。つまり大株主・支配株主だけが現実資本の所有者とい

うにふさわしし、。株式会社とは,おびただしい中小・零細の株主たちに形式

的観念的に平等の所有権を与えるこ とによって,株式会社の資本全体を会社

じしんの所有に,したがってその会社の支配者たる大株主の所有に帰せしむ

る機構にほかならない,と。このような見解はかならずしも明示的ではない

が,やはり「分離」論批判の底流をなしているように思われるのである。

いずれにしても,株式会社所有についての吟味は,所有と経営の分離をめ

ぐる論議のなかで意外なほどわずか である。後述するように,t分離」論議の

なかで「所有」でなしに「支配」が焦点になるということには,じつはそれ

なりの必然性がある。しかし,それがなぜ必然であるかという点もふくめて,

株式会社所有についてのたちいった考察が必要で、あろう。

所有と経営の分離と L 、う事象は,事象としては今日,誰の自にもそう映る

ほどのものであり,しかも株式会社のいわゆる構造変革の主要な一環と目さ

れてもいるから,社会科学の各分野で論議をよんできた。法学では解釈法学

における株式性質論争や会社諸機関 の権限論などのほか,法社会学や法制史

学における近代所有権の研究も,それにかかわっている。経済学では信用論,

金融資本論,現代資本主義論に加えて,近年では物象化論,所有論など,原

理的レベノレの研究もそれに加わっ てきている。経営学にはむろん,多くの

「分離」論議がある。社会学や社会統計学における,階級構成,パワー・エ

リートの析出,いわゆる現代官僚制論なども,1"分離」現象を一定程度反映し

ているといえよう。しかしながら,分野が異なると論議の視角や方法には大

きなちがし、がある。各分野の研究成果のなかから,なにを摂取し,株式会社

所有論として統括しうるかという問 題を,以下においてかんがえてみたし、。

1)

村閏稔「経営者支配論』東洋経済新報社, 1972 年 3 頁。

2) R. A. Gordon: Business Leadership in the Large Corporation. 1948. (平井泰

太郎,森昭夫訳『ビジネスリーダーシッフ。』東洋経済新報社)

3) P. M. Sweezy: The Theory of Capitalist Development. 1942.pp.

261~2.

都留

重人訳『資本主義発展の理論』新評論, 1967 年, 322 頁〉。

スウイージーの後年の理解は,これと同じでなし、。たとえば P. A. Baran と





6

.(7

96)

経済学研究第

28

巻第

4



の共著

Monopoly

Capital

1966.

(小原敬三訳「独占資本

j

1967;

存岩波書広〕に

おいて彼は,①巨大株式会社の個別

的な内部構造には

ι

太株主や利益集団の支配!

数見出される,②しかし彼ら経営者

=会社人

J

一国の階級構肢のなかで、は,あく

まモ資産階級の中核部分を形成して

いる,

③そ

じて今日の真の資本家は彼ら個均人

=実業家で、ぬなくて「会社巳しん

」で

あ.t

!l

笑芽亥たちは,

,奈進,成功といマた目的を動力と

して,その「会社じしん

J

の蓄積機能を担う,という説明をあ

たえている(同書の第

2

章〕。私見とおなじで



}勺九

2.

会社法学の分野には,株式の性質を

めぐる古くからの論争がある。換言



れば,株主が株式会社にたいして有

する権利,関係をどう規定するか,

とい

う論争である。本稿の関心に沿って

つづめていうなら,株式の会社にた

し、す

る所有権としての性質と,株式が信

用巳媒介されているが故にもつ債権

的性

質とを,し、かなる法律的概念、に

よって整合的に把えるかという問題

である。

'19

世紀における株式性質論は,物権説

(株式会社を組合視し株式を株主

の会社財産にたいする共有持分ょす

る説〉と債権説(株式会社の所有を

じしんにおき,株式を株主の会社に

たいする債権とする説〉との対抗を

へて,

社員権説によって克服された。社員

権説によれば,株式は,営利社団法

社員が私的利益のためにもつ自益権

(配当請求権,残余財産分配請求権

)と,

法人じじんの目的を達するために社

員がもっ共益権(主として議決権〉

との,

二面の権利を包括する

O

それは,株主の権利を,物権か債権

かとし、う個人法

レベノレをこえた固有の財産権と!

じて規定するものであった。だから

社員権は,

所有権ー般と異なる範時であるとい

うところに,意義を有する

O

しかし同時

に,社員権説をとる多数の学者は,

あくまでそれを所有権の側から,所

有権

一般の変形物と

L

て¥,



L

、かえれば株主が企業所有者だとい

けているのである。たとえば,社員

権説を代表する一人である大隅健一

は,つぎのようにいう

O

.1........

会社事業は法律的

I

こは法人たる会社の所有に帰属し,





株式会社における所有森

7. (797)

にはそiの投下資本の所有権を喪失す?る

O

しかしながら,経済的に見れば会社

事業はもちろん株亙の所有ば属

す』るので、あって,各株主は会社事業に対して

その投~資本の割合に応ず、る分け

前を有する。この観念的な分け前が

法律的

には株主権としてあらわれる占すな わ』ち,¥株主は名白的にはその投下資本に

対する所有権を失うけれども,実質的にはらそ

の所有権が株三巨権に変形された

ものといえる

O

その意味においては株主権は所有権の変形物であるといって

よい。」株主権=社員権のうち

J自益権は……所有権の収益権能の変形物であ

り,共益権はその支配権能の変形物であるといえる。」

社員権説は,今日においてもわが国法学界の通説をなすようであるが,こ

の通説にたし、するものとLて,田中耕太郎氏の社員権否認論が生れ,さらに

株式債権説が再登場してきた。いずれも所有と経営の分離の進展にみもなう

株式性質の変化を根拠とする点において,古い債権説とは異っている

O.

あらたな株式債権説を首唱した松田 三郎氏によれば,近年,企業の所有と

経営との極端な分離,さらに経営者支配によって

J株主は木来株式会社とい

う社団法人の社員であるの

I

こかかわらず¥一般株主の地位が単なる債権者的

のものに転化した

J。株式は今や単なる利益配当請求権として,いちじるしく

債権に近似のものとなった。株主と会社との関係は,持分=所有の関係とし

てでなく,利益分配の契約関係として構成さるべきもので、ある。

ここで留意しておくべきは,社員権説七債権説も「所有と経営の分離」と

いう場合,総じて少数の株式しか所有しない大株主に経営・支配が集中して

いる事態を指しているということ,あるいはそうした大株主支配といわゆる

経営者支配とを弁別する論理が,ほとんど問題視されていないということで

ある。この点,経済学,経営学における最ー近の「分離」論議とは異なるので

ある。

社員権説は,株主権をあくまで共益権と自益権の統一とおさえるから,一

般株主の債権者化なる現象は,たんに一般株主が共益権を行使しないことの

表現にすぎず,株式そのものの変質を意味するものではない。かかる理解を

経済学の研究領域に移しかえてレラな日,株式会社はほんら

ν 、自己資本の結





8

(79

8)

経済学研究第

28

巻第

4



合体とじて出発し,その発展につれ

て自己資本の一部の無機能化(し、

わゆる

自己資本の他人資本化〉を拡大して

いくが,株式会社そのものはあくま

で機

能・所有の統一体であると

L

寸見解,にちかいのではないかと思

われる。

それにたいして債権説は,株式に,

いわば自益権だけを認めるのである



では共益権,具体的には株式に備わ

る議決権のほうを,どう解するのか

。債

権説によれば,共益権と自益権とを

おなじ法理のなかで統一的にとらえ

るこ

とじたいが,まちがっているとし寸

。自益権は,ほん白い私権として株

式に

備わっているものである。他方,共

益権は,個々の株主でなしに機関(

会社

じたしうがもっ権利であり,それは

国家,地方自治体など公法上の諸国

体,

組合,財団など,あらゆる機闘をつ

らぬく団体法のレベノレで、把握さ

るべきも

のである。株主はその団体の構成員

たる資格(この資格は,出資者が社

員と

なることによって原始的に取得する

〉において,r会社じたいの利益

J

のため

,その行動原理は,個々人の自益権

の行使

も国家の行動が「公共の福祉」を基

底に

としてなりたつものだというのであ

る。

1)

株式の性格をめぐる法学界の議論の

概観は,北沢正啓「株式性質論の展

J(

同氏

著『株式会社法研究

J

1976

年,有斐閣,に所収〉を参照。

2)

富山康吉,前掲書,

93

頁。

3)4)

大隅健一郎,前掲書,

148

頁。

5)

松田二郎

F

株式会社法の理論

J

1962

年,岩波書庖

2~3

頁。

6)

中村一彦『企業の社会的責任一一法

学的考察

J

1977

年,問、文館,

62~64

頁。

n

北沢正啓,前掲書,

133

頁。

81

後藤泰二『株式会社の経済理論

J

1970

年,

ミネルヴァ書房。とくに同書第

1



2

章を参照。なお社員権説が「自己資

本の他人資本化」の観点、にたつこ

でいえば,債権説はあきらかに株式

会社を

r

他人資本の自己資本化」の観点から

とらえているといえる。たとえば,

我妻栄『近代法における債権の優越

的地位」

1953

年,有斐閣,

296~297

頁をみよ。

91

松田二郎,前掲書,

30~42

頁。

社員権説,債権説の対立が,法解釈

の優劣にかんするものであるかぎり





株式会社における所有森

9 (7 99)

いのであるが,以上瞥見したところでも,両説の内容と対立点には株式会社

所有を吟味するさいの手がかりが,し、くつかふくまれているように思われる。

両説はいずれも,株式会社所有が法技術的にも私法における所有権一般の

範時内で把握しきれないということ を,明らかにしている。その場合,いず

れの説が株式会社の諸特質あるいは株式会社の近年の諸変化を積極的に射程

にいれているかとい九ば,少なくとも現象のレベルでは,債権説のほうであ

るといわねばならなし、。

第1 に,社員権説は株式会社所有をあくまで,私的所有権の変形物として

とらえるから,

r

会社じしんによる会社所有」は,まったく形式的,名目的の

ものにすぎない。多数の株主に分散している所有こそが実質であり,その実

質的な分散所有を統括して法律関係を単純化した法技術の所産が会社所有な

のである。他方,債権説は,会社の所有が非人格化し,企業が客観化し財団

化することに,より積極的な意味をもとめる。独自に株式債権説をとる我妻

栄氏は,株式会社の発達によってむしろ「主会

L

ゐ命岩金は個々人から法人

たる会社に移り,個々人の所有権は・・・…『制限せられたる所有権』に過ぎな

くなる,と見るを至当とする。」とのべている。また松田二郎氏も,共益権を

団体法上の原理とみることから,会社所有というものを団体的所有との関係

で把握せんとする。「社会の実相に従えば,個々の社会成員が何等の持分を持

たない団体的所有権と個々の成員が持分を有する共有との聞に段階が存在し,

中間的形態を認めなければならない ・・・…」といい,公法・私法の領域にわた

る諸団体をその諸段階に位置づける 。そしてそうした団体的所有の性格如何

と次元を画して,団体内部における構成員聞の結合を,組合形態(直接の契

約的結合),在図形態(多数決による結合)と区別

Lていくのである。

第2 に,前述したように両説とも「所有と経営の分離」については,これ

を大株主支配と同義とみなす,あるいは少くとも大株主支配

ι

経営者支配と

を弁別しない点で共通しているので あるが,どちらかといえば債権説のほう

が,

r

経営者支配

Jという事象に固有の意味づけをする視点をもっ。それは会

社・株主関係を所有関係よりむしろ契約関係とみなし,企業経営者を資本の





?な、て

800)

経済学研究

VZ



4

手予

らにム

4

殻公共の受託者とみなす僚機説の構

成からいって,当然のこ



?ょう

O

BJ

こ戸機権説は,株式会社が公法国体

之共通する法理を有すること,株

式会投はほん長い〈燦史的に

3

忍法よりは公法I'

G

農する組織とよて出発じた

たあてのふくあが,.とれは叢聖書

な指檎である己株

されて出発とだとレうその性格は,

今宮の

f

社会花

j

規践のふ;ム環をなしているがちで

苛あるよなた今

日のいおゆる組議論的経営さ芥が公

法関体・

1

弘法居手本をとっらぬと組識論~般

をもとめ,そのなかに会社組織合位

置づけようとする,そうした態考に

つう

ずるものといえぷう0"私見はかか

る組織論的経営学を方法において受

容す

Q

1

ものでないが,

しか、しそうじた研究分野合饗講ず

る£うな社会経済的な傾向

よまりうつあることは答定しがたい

のである。

4t

こ"株式所有と会社財産の所有との

逮際は,じつは需用に接介されて

はじめてなりたみでいるのであるが

,社員権説に立その議長が

1

希薄で、ある。

もっとも饗権説の主唱者たる松間二

郎氏の著述にも信用論的視角からの

はみられないのであるがィたとえば

実方1E雄氏がこの視角によって株

式量権

説を支持

L

,展開しているぶまた我繁栄氏は周

知の労作

F

近代法における債

権の優越的地役

j

において

f

所有権と積権の結合から章受権の優

越にいたる

「対意関係

j

の康史的発展の機数に株式会社の設

場をえがき,したがうで株

式会社陀おける「所有権のご重イヒ

X

事実上の所有権が法入に移り,他方

個々

人の費有権は制限せられ告を権者の

地位に接近する〉がまさにこの所宥

権と

(信用〉の相互規定的発燥の所長ま

であると論じている。

しかしながら,以上のような利点を

糠めてもなお,

あるという見解合,われわれは採み

ごとができない。所有と経営の分離

とい

う現象を現象としては苔窓で

J

きないのと間援に,株式の般機イと

きない現象であるの管機税の如上の

議利点は,そうじた現象揺の変化に

対じているところに大きな根拠をも

つで、あろうミそしてじつはそのこ

器機税の根本的欠路一一株式につい

ての本賞論な欠くとやうーーにつな





株式会社に?おける所有森

11 (801)

ていると思われる。債権広近似前広現象する株式をそのま京債権と規定l<て

しまうならば,その本質にたちいる道は閉ざされざるをえなし、。資本二重化

の意義,法人所有のなかに私的所有原理がいかtこ貫徹するか

ρ 問題,

f 経営者

支配

J下の企業行動之利潤動機との関係な ι

解かれるべき問題が問題と

L

て提示されえないので、ある。償権説はいわゆる 1 株 1 議決権の原則を否定し,

株主はその有する株式数に関係な,¥'常に一個の議決権を有するにすぎない,

ただ議決のお、の分量の多寡が株式数によって計られるにすぎないと論

t



かかる論理によって国家,地方公共団体における住民の権利と会社における

株主の共益権とを同質視するのであ るが,これなどは債権説り皮相性と欠陥

を凝縮して示寸ものといわねばならな L 、。法解釈論としてはともかく,社会

科学的には問題にならぬ議論で'ある

0"

法解釈のレぞくルをこえて債権説へ の的確な批判が,かつて川島武宜氏によ

って,近年には富山康吉氏によって書かれている

O

両氏の所論はともに,資

本主義制度の法的構造をあくまで、私的所有権を基礎に把握し,株式会社の所

有を私的所有の極限的発展形態とみ て,その観点、から債権説を否定している

ことで共通している

σ

その観点の正しさにここでながなが言及する必要もな

いほどであるが,しかしながら私は,雨氏の「媒介された資本所有ム「高次

の形態の企業所有権」によって所有よ経営の分離への所有論的解決をめざL

た場合に,なお不充分さないし残された問題があるのではないかとい生疑念

をもっ

O

とくに問題にしたいのは,両氏の

f 会社じしんの所有

J, r

株主の共

有」にたし、する理解である。まず富山氏の場合には「会社じしんの所有J.

d



は法技術以外の何ものでもないから ,株式本質を論ずるさいにその意、義はほ

とんど考慮されていなし、。氏が「高次の所有権」というのはあくまで,私的

所有ががんらい個人的分散的な所有 ・機能であることのわくを破って一方に

機能資本を集中し他方はそれを大株主の私的所有によって支配ナる権利・

機構が成立することを指すのである

O

川島氏の場合にはやや異なる。資本の集積・集中にともないまず「合手的

共有」としての合名・合資会社が出現し,さらにすすむと株式会社にいたる。





12

(802)

経済学研究第

28

送第

4



「それはもはや箇々の資本所有者の

外的な結合ではなく,独立の存在と

して

の団体

corpora

tion

である。……株式会社においては,

資本は,独立の存在

たる団体を媒介して完全にこ重の存

在に分裂する。資本はまず第

1

には,独

ーの直接的な私的所有であり

人の個人的所有である

O

が第

2

~こ,この

会社の資本は,会社の人的団体関係

をとおして「株式』として観念的に

株主

によって所有される。株主は直接に

は会社の現実的資本に対し持分をも

たず,

団体の構成員としての人的関係とし

て間接的にのみこれを所有する。」

やや理

解しにくいところもあるが,合名会

社の「合手的共有」にたいして株式

会社

の「共有

J

cr

株主の社会的所有

J)

の性格が表現されているといえよう

。ここ

では「法人の個人的所有

JC

会社財産の所有者はその会社じしん

で、あるという

こと〉は「擬制」であるが,それは

個々の資本所有者が単なる外的結合

でな

い「独立の団体」を結成しているか

らこその擬制であり,実質的なる「

共有」

の表現であることを,川島氏なりに

説いていると私は解するのである。

「共有」

をなぜ、「法人の個人的所有」に擬

制せねばならな

b

、かというところに,株式

会社における私的所有原理の貫徹の

問題がこめられているであろう。法

学界

には法人実在税・擬制説をめぐる周

知の論争があるが,実在説が法技術

と実

体を混同しているという意味では擬

制説からの実在説批判は正しいとし

ても,

同時にかかる擬制の根拠になってい

る社会的実体の究明が必要であろう

と思

う。大株主の私的所有による会社の

究極的支配ということと「法人の個

人的

所有

J



f

株主の共有」とは,ほんらい統一的

に把握されなければならないの

ではないだろうか。

1)

大隅健一郎,前掲書,

148

頁。

2)

我妻栄『近代法における債権の優越

J

1953

年,有斐閣,

298

頁(傍点,森〉。

3)

松田二郎,前掲書,

130

頁。

4)

実方正雄『会社法学

II

J

1900



有斐閣,

215

頁以下。

5)

同,

257~258

頁,松田二郎,前掲書,

60~62

頁。

6)

川島武宜『所有権法の理論

J

1900

年,岩波書庖。

7)

富山康吉「株式と資本所有の論理的

J

(富山,







株式会社における所有森

13 (803)

掲書に所収入

8) 大隅健一郎氏も「会社事業は法律的には法人たる会社の所有に属するが,経済的

には全体としての株主に属する。株式はこの法律的形式的には会社の所有に属し,

経済的,実質的には株主の全体に属する会社事業について株主が有する観念的な

分前を示すものであり,それが法律的には株主権としてあらわれているのである。」

(大阪

rt

,、わゆる株主の共益権について」松本先生古稀記念『会社法の諸問題』

1951 ::q三,有斐閣,所収,150 頁,傍点は森。また氏の『株式会社発生史論

J170頁

にも類似の文章がある。〕とのべている。この面では「形式的な法人所有」が実質

的には「株主の全体」という意味での「共有」だとのべられているようtこ読み、と

れる。ところが他面で氏は前述

(36頁〉のごとく,法人所有は「多数の株主に分

散している所有」を統括して法律関係を単純化したものだと説くのであって,

r



質的な共有」論ではない。むしろ共有〔総有,合有などと区別されるところの〕

とし、う概念そのものが,実質的な分散所有を単一の所有に統括する法形式だと解

すればよいのであろうか。また,大隅氏のこうした主張と川島氏の如上の所論と

は「共有」論においてはっきりちがうと解してよいのであろうか。法学門外漢に

はまことにわかりにくい文言である。

3.

マノレクスの株式会社論については

すでに多くの論稿が書かれているが

,上

のような所有論的視角から吟味した

ものはかならずしも多くない。『資

本論』

に散見されるマルクスの株式会社に

かんする叙述のうち,本稿の主題に

とく

にかかわりがあるのは,第

3 巻第 5 篇「利子と企業者利得とへの利潤の分裂,

利子生み資本」の各章における叙述

である。

まず第

23 章

cr

利子と企業者利得

J)

でマノレクスは,総利潤の利子と企

業者

利得への量的な分割が質的分割に一

一利子が資本所有に帰属するものと

現象

し企業者利得が機能資本に帰属する

ものと現象するというように一一転



することをのベる。そのように利子

が資本所有そのものの果実とじて社

会的

に容認されると,他方企業者利得は

資本所有から独立したものとして,

すな

わち非所有者の機能の結果として現

象するようになる。こう

Lて機能資本家

が,所有から分離されさらに資本か

らさえ離れて,むしろ監督労働者と

して

現われるにいたるのである。マノレ

タスは機能資本家のかかる機能が,一面で

オーケストラの指揮者のような

L、かなる結合的生産様式でも行なわ

れなけれ





14



804)

経済会幹研究

多彩,

4



い生産的労働たる性賀と,他留で階

級支配のための援史的に独自だ

もっと規定している。

自身は,指揮の労働がまったく資本

野有から分離じ

て街願望どさまようまでにじた。だ

か私この指揮労働が資本家によっ

われる必要はなくなっ?と。

j

資本五議体舗のなかにおいて,その

とと会積秘的

に実証した生産形懇は協同組合であ

り,そのことを資本じしんが

3

客観的にい

だとし、う。

分割したがって所布資

が,ぞのま愛株式会社におけ{;株



あって,7!X方の厳密な在期はこ

.>3t-

ていなし、。資本が;資付

J

どし〆、う形態で所有資本家から機

能資本家に

される場合と,所有資本家じしんに

よって[投資

j

ぎれ

i

貨幣が前貸し

でなく株券と交換され〉その連用が

機能資本家に委ねられる場合との厳

績な

rK別がない以上,

いする所有限

j

保はここでは明らかになりょう

がないのである

O

その点もっとたちいった記述が,

であたえられる

c

それは,

im

株式会社の形成。こ

Q

信用の

よって一一」

および

i

lV

株式樹震

j

における記述である。まず謀でマル

クスは,

(仏俗

人企業?こは不可能だった大規模生

産が株式会誌によヴて可能になり,

I

可時に

かつての政府事業が株式会社で、お

こなわれる。@,資本がこ二では直

接に綿

入資本に対立する社会資本〈重義に

結合した議錨人の資本)の形態をと

り,

企業が個人企業に対立する社会企業

として現われる

J

それは資本主義的生産

接式そのものの限界のなかでの,私

的所有どしての資本の廃止であるけ

③,

f

現実に機能している資本家が他人の

資本月号布三者は単なる所有者,単

J

貨幣資本家が受

けとる配当は来Ij子とは異なる範

襲撃にありながら,それは科予の形

態でのみ,

すなわち資本所有の報{震としての

み受けとられ処方,支配人の報舗は

賃金

の一部としてあらわれる。

F

上は支聖人から下は日震い人ビ至る





株式会社における所有森:

15 て805)

産に従事するすべての個入」と生産手段所有とが対立する。下株式会社でほ,

機能は資本所有から分離されており ,したがってまた,労働も生産手段と剰

余労働との所有からまったく分離されでいる。

ζ

のような資本主義的生産の

最高の発展の結果こそは,資本が生産者たちの所有に,といつでももはや個

々別々の生産者たちの私有としでの ではなく,結合された生産者で、ある彼ら

の所有主しでの,直接的社会所有としての所有栴,再転化するための必然的

な通過点なのである。」

、-

,'.三

皿で、は,株式会社が個

λ 企業に対立するいおば社会企業であること,所有

主機能の分離が一一利子主企業者利 得の質、的分薄Uv字僧人資本家さえをも所有

者としでの自分占経営者としての自分に分けて観念させるといったがそうじ

た観念,抽象次元で、なじに一一完全に現実のものとなること,この分離が現

実化し徹底すれば機能資本家は単な る支配人?管理人に転化すること,私的

所有がこのように生産過程にたいじ て無力化でする現象は,直接生産者による

社会的所有への歴史的通過点で、ある

ζ

とがのべられている

O

しかしその現実

の株式会社を誰が所有するのか,誰が支配するのかは,依然明らかせない。

その問題を扱うのは,-,

v;;>

ぎり

Nである。,

では,まず信用の次元でつぎのよう

にし寸

…信用は,個々の資本家

に,または資本家とみなされる人々に,他人の資本や他人の所有にたし

する,

ある範囲内では絶対的な支配力を与える。自分の資本 k こではなく社会的た資

本にたし、する支配力は,資本家に桂会的労働にたし、する支配方を与える。人

が現実に所有している,または所有し吃いると世間が考える資本るの

ものは,

ただ信用という。上部建築のための基礎になるだけであるoj

このように信用が,,他人の所有にたいじて「ある範閤内

Jで、は F絶対的た

支配力」をあたえる。じかもその支配力を得る者は,個々の資本家だけで、な



F資本家とみなされる人々

j

で、もありう,る

U

こら

Lて「所有」から下支部」

が自立化する契機があたえられるの である。信用を寺段とする資本集中によ

っで,

r

収奪はことで直接生産者かあ小中の資本家そのむのにまで

J及び,、つ

いには

Fすべての個人からの生産手段司の収奪

Jにまで、達する 0







16

(806)

経務考会研究第

28

巻務

4



これな現実とするものも,株式制度

なのである

01....

日生産手段は,社会的

、もなくなるのであっ

の社会的生産物であるのと馬様に,

1]

皮ら

ので

j

そのもののなかだは,反対の姿

有の取得として現われる。……株式

能震の

が{図人的理宥として現われるよう

な古い

かし,株式としづ形態への転化は,

それ

にとらわれている。それゆえ,それ

は,

性格のあいだの対立を克議するので

はなく,

げるだけなのである。

J

株式会社所有の問題に限定してこの

霊,lVの論点を読み乙るならば,

つぎ

のようにいえるであろう。株式会社

が「社会企業

J

であるという場合,ここ

では家ず借入金業の議蓄積をこえる

大規模生産・「結合怒れた生産者

J

による

生産を指し,さらにかつて致府事業

だったようなものが株式会社に襲わ

れて

いることを指しそして生産手段が「

蜜援に結合した諾瀦人の資本

J

つまり

?社会的所有

J

に級化

L

でいることな指している。{憶用が

かかる

f

社会的所



J

への私的な支配合実現している

C

私的所手ぎが生霊長議程から無力化

し寵当

が幸さそ子の静態でのみ受汁とられ

,他方で機能資本家が支配人・

ずるのであるから,ほんらいの「資

本家

J

概念は所宥資本家にも機能資本家

にもあてはまらぬものとなるであろ

う。

マルクスが株式会社における所有と

議龍の分離というときには,その所



はあくまで、個々の資本家の出資

r

私的所有で、ある。それは中小株主

だけ生ずるので誌なくて,すべての

株式の性格安規定している。しかし

会社の現実資本すなわち「蓋接に結

合した諮偲人の資本

J

は,生産遅程で機

能するま体であってそれが機能から

分離することはありえない。吋ノレ

タスは

それを実紫約に直接生産者たちの共

有=社会的誘有に転化していると解

する

わけである。しかし~た,株式会社





る所有森

17 く 80 7)

ちの共有という実質をその

3

まま示すことは℃さない

的なわくの

もとづく

いるのが諮問組合である

)oi言用qr.,

-他人所有支恕の手段によって,むしろ少数殺がその社会

るというのいごある。

これは今日の株式会社所有をかんがえる場合のまことに興味ぶかし

あたえてくれるが,むろんそれ涼十分に燥閲されたものではないし,疑掲の

余地ない内容ともL 、し、がたいのである。とくに開題としなければならないの

は,

r

直接に結合した諸錨人の紫本

Jからなる株式会社を,ただちに実葉的な

社会的所有とみていることである。株式会社は檎舟に媒

介された結合資本であるから倍々人の株式所有をそのまま現実資本への線分

所有とみなしえないというのは正しいが,そオ:tは株主全体によるし

家的共有であって,直接主義主義による共布に室長絡すべきではないので、はない

か。私的所有は生産過程にたし、して無力化じても

資本家信共有による生産

過載の掌握すなわち議接生産者たち への支記は,十分に突鷲をもっているは

る。株式会社によって資本・労(織をど分ける語学ぎ関係が直接に変容する

のではなく,あくまで基本部には資本の内部における所有関係の変化一一資

本家的共有の形成,それを少数者によっで支配するメカニズムーーがあり,

それが資本ー労働擦係をも変化させ ると解すべきではないだろうか。資本家

と濠接生産者の共有との草加が明瞭でないために,ダノレクスでは

f 少

数者 j のう芝艶・中小株主への収奪としづ毒事態と少数者jによる

の支配との区別も現壌でなし、。この点を勢磯にしないまま,株式会社と

組合とを

f 資本主義的生産様式から結合生産様式への過渡形態

Jと同列視す

るのも,

r

母題があるといえよう。それらのことば厳滋部には

3

社会鰭賠緩の

南極分解や独占の認機にかんする,郁子ノレタスの雲寺の隆史的制約を示すもの

ともかんがえられる。

1) K.

マノレタス『資本論

J

cr

マルクス・ェンケ、ノレス全集

j

部)

397

1{

(全集ドイツ誇絞のページを示す 10

お向上,初

O賞。



25 巻,

fift

1





18

(808)

経済学研究第

28

巻第

4



"3)

向上,

452~45

.6頁。

ではそうした歴史的制約にもとづく

株式会社所有についての問題点は,

20

世紀の株式会社論におし、て,どう

し寸方向でどの程度解決されてきて

いるだ

ろうか。

2



3

の著述を検討してみよう

O

まずとりあげるのは,

ヒノレファディングの『金融資本論

」である

O

同書第

2

篇の株式会社論のなかから,株式会

社所有にかんするヒノレファディン

グの

理解をうかがうことができる

O

まず彼は,

1

生産手段の所有者たちはもはやイ回

大個人としては実存しなIt

'J



代表しはしなし、」ことを明言して

いる。

手にあるのか。ヒノレファデ、ィン

グは問題

所有(私的所有〉が現実資本から分

離し

O

この分離によって「機能」と「所有

」はそれぞれどうなるか。「機能」

のほ

うについて,

ヒノレファディジグはつぎのように

し寸己「産業的集積運動の所有

運動からの分離は重要だ。というの

は,これによって前者はますます技

術的

経済的諸法則にしたが

L

、さえすればよくなって,個人所有

の壁からは独立す

るからである。同時に所有の集積で

はないこの〔産業的〕集積は,所有

の運

動によってまたそれと同時にうまれ

る集積および集中とば,区別されね

ばな

らない。」つまり彼は,生産の集積

と所有運動による(資本の〉集積・

集中を

区別したうえで,生産(機能〉と所

有が分離した以上,生産活動たとえ

ば機

械・技術の採用や他工場の吸収など

は所有(資本〕利害をはなれでもつ

ばら

その技術的経済的合理性を追求する

ようになってきている,

したがって私的

所有にまる制約や歪曲をこえて発展

L

うるようになってきてい一ると

説くの

である。彼はこの観点を,主として

個人企業にた♂いする株式会社の優

位性と

して,資本調達力の優位と併せて提

示するのであるが,それにしても株

式会

社の集積の動力を現実に所有から,

所有利害から分離されたものと説く

のは,

まことに問題だといわねばならなし

、。しかも彼は他方で多数株を有ず

る少数

者に

よる会社支配にも言及しているので





株式会社における所有森

19 (809)

生産活動との関係が論じられなければならなかったはずで、ある。

つぎに「所有」のほうについてよ株式制度の拡大につれセ,資本主義的所

有はますます次のような制限された 所有となる。つまり,資本家には単なる

剰余価値要求権だけをあたえるが,生産の行程に決定的干渉をすることはゆ

るさないところの所有となるのだ。」ヒノレファディングは資本が二重化するこ

とによって所有も二重化するという ふうにはいわないで,所有が「制限され

た所有」になり

J所有者はより少ない権利の所有者になる」とし、う。このよ

うな所有の制限によって生産資本に生じた間隙は何によって埋められるか。

それは「所有」から相対的に独自化した「支配」であるようにも読めるし,

また「小資本家たちの最大多数の所有の制限」と対照的に少数の大資本家の

所有が拡張せられるというようにも 読める。彼は,結局大株主が企業全体を

制することを各所でのべている。これを彼らの所有の拡張と解するならば,

そもそも如上の所有と機能の分離論 がなりたたなし、。しかし反面,所有と区

別される支配概念が自覚的に提示されているわけでもないのである

O

そうし、う不明瞭さも問題であるが,ヒノレファディングの株式会社所有論

ρ

なかで、最も特徴的なのはむしろつぎの点であろうと思われる。

彼はし、ぅ。株式への投資は貸付とちがって貨幣を決定的に手離したので、あ

り,しかもその貨幣は生産資本の購買によって売り手にわたったのだから,

株式はもはやこの貨幣を代表しえな い。「とはいっても,株は生産資本そのも

のをもけっして代表しはしない。というのは,第 1 に,株の所有者は生産資

本のどの部分についても請求権はも たず,ただ収益についてそれをもつだけ

であり,第 2に,株がもし生産的に機能・しつつある資本の持ち分を現実にあ

らわすものなら,倉庫証券または積み荷証券のように,.なんらかの具体的使

用価値を代表しなければならないは ずだが,そうで、はなくて,それはただー

貨幣額についての請求権をあたえるにすぎないからである。

J ,

株式がし、かなる「物」として所有対象になるのかと

L

寸場合,われわれは

現実資本価値に直接規定された株式 額商(この面において出発点から債務証

書と区別される) ,資本が商品として売買される価格としての利回り(利子生





20

(810")

経済学研究第

28

巻第

4



み資本一般との共通性)

,配当を資本還元した擬制資本価格

としての株式相場

〈利子生み資本一般の運動をこえる

〉の三国を,その「物」の「価値」

とし

うる。この三面の相互の関連を統一

的につかむことが株式「所有」の意

味を

あきらかにするはずである。しかし

ヒルプァディングの場合『金融資本

論』



2

篇をつうじて,所有対象としての株

式はほぼもつばら相場価値として把

握され,額面価値の意義は黙殺され

ている。わずかに注に「株式相場と

生産

資本との価値との関係は,いまでは

次の点にあらわれるにすぎなし、。

すなわ

ちそれは企業の破産にさいして他の

すべての債権が支払われたのち,破

産財

団のうちから分数として株の分けま

えに帰する価値部分より以下には株

式相

場が低不しえないということである

。」という一節があるが,その意義

にうい

ての洞察はみられなし、。彼は生産

資本と株式資本への二重化が生じた

とのべ

たあとは,もつばら所有を「株式資

本」の側でとらえる。その「株式資

本」

の価値とは純粋に擬制的なものであ

って現実資本価値を反映していない

。た

だ収益を反映しているだけである。

創業者利得なるものも彼にあっては

,現

実資本価値と株式相場との差として

でなく,利子を生む資本と利潤を生

む資

本との差として説かれていることに

留意すべきであろう。

株式はほんらいその額面まで払いこ

まれなければ発行が成立しなし、。

そう

いう現実があるからこそ,現実資本

にた

L

、する比例的持分が観念されうるの

である。ヒノレブァディングが株式

会社を論じて配当や投機や創業者利

得を独

自の経済的範曜として解明したこと

は,大きな功績であるが,彼が株式

資本

の運動の独自性を強調するまさにそ

のことが,株式と生産資本の関係の

切断

したがって生産資本じしんの所有関

係への視点の欠落につながっている

こと

を,難点、と

L

て指摘せざるをえないのである。多

を収奪し会社資本を「支配」する根

拠についても,マノレグスをこえる

なしえていないといわなければなら

なし、。

1)

R.ヒルファディング「金融資本論

(林要訳,国民文庫版,第

1

分冊の頁数,お

よび

Oietz

Verlag



Berlin

1955.

の原書頁数で示す。〉邦訳

251

頁,原書

169

頁。

2)

向上,邦訳

256

頁,原書

174

頁。





株式会社における所有森

21 (81 1)

3) 向上,邦訳 250頁,原書 168 頁。

4) 同書のたとえば,邦訳 242 頁以下,原書 163 頁以下。

5) 向上,邦訳 250頁,原書 169 頁。

6) 向上,邦訳 256頁,原書 174 頁。

n

同主,邦訳

211~212

頁,原書

m~8

頁。

マノレグスには,株式会社における資本の二重化にともない,株式の「私有」

に対応し℃生産資本の.,

f 共有」という視点がある。しかしその共有をただち

に直接生産者の共有(社会的所有〉につなげた点に,難点をのこしているよ

うに思われる。ヒノレファディンダの場合には,生産資本への所有の観点は稀

薄である。資本の二重イヒにともなう所有(私有〕の制限のみが強調されてい

るので、ある。

生産資本にたいするいわば資本家的な共有という観点を明確にうちだして

いるのは,

B. TI. シュクレドフである

O

シュグレドフによれば,

1

私的所有としての資本」は,資本運動じしんの展

開にともなって刻々止揚されてし、く。まず利子生み資本の成立によって,す

なわち資本家が他人の資本を使用して剰余価値の一部を取得することによっ

て,それを「社会的資本として,彼の所有でない資本として利用」すること

になる。ついで、,銀行に集まる貨幣資本が「他人の資本と他人の所得とを自

由に処分する」ことを可能にし,1 直接に社会的な結合資本の形態」へ,私的

所有から「結合所有,一定の資本家グノレープの所有への転化傾向」をおしす

すめる。しかしその結合資本は未だ貨幣資本の形態にとどまるのであって,

再生産の場の資本は私的所有として の資本として存在しつづける。株式会社

においてはじめて「産業資本全体が結合資本に転化」するのである。

「結合資本がし、かなる形態をとっていようと,それが貨幣であろうと生産

手段であろうとあるいは生産された 商品で、あろうと,直接的には各個の株主

はこの結合資本の所有者ではない。所有者としての株主に属するのはその会

社の株式の特定部分だけである。私的所有はここでは株式の形態で存在する。

株式が擬制資本であるかぎりで,株主は擬制資本の私的所有者である。...





22

(812)

経済学研究第

28

巻第

4



現実的資本についていえば,客観的

には,それは擬制資本にたいして自

立し

たー全体で、あって,その機能的運

動は個々の私人間への株式分配の変

化とは

なんのかかわりももたない。」

「このように,株式会社においては

,現実的資本が直接的に社会的な形



をとったうえで,結合資本家の姿を

とって人格化されるのにたし、し,

各個の

株主は擬制資本を人格化する。社会

的資木は特定の一個人の;人格と不

可分に

癒着することはない。

J

r

以前に発生したら資本家?の貨幣資

末家と機能資本家

へのこ重化は,株式会社においては

,私的擬制資:オマの結合機能資本

からの分

離に成長転化する。諸個人の純粋貨

幣資本家への・・・…転化は,産業

資本家の

結合資本家べの転化をともなう。」

みられるようにシュクレドフは,株

主を擬制資本にたし、する私的所有

者と

じ現実資本にだいしてはこれを全株

主(結合資本家〉の共有と,明瞭に



定している

O

この結合資本家の人格化あるいは法

律的な表現が,1会社じしん」

・法人なのである。前述のごとく解

釈法学が法人所有=共同所有を単な

る形

式,法技術とみなすのとちがづて,

シュクレドフはかかる形式の根源、

にある

所有の実質的な変化を易Ij出した

といってよい。

そこでつぎの問題ほ,株主の私有と

現実資本との関係如何,すなわち生



過程に私的所有の原理がいかにつら

ぬかれるかである。それについてシ

ュク

レドフはつぎ、のようにいう

O

「もちろん,現実資本と擬制資本の

あいだに相互関連が客観的に存在し

いるのと同様に,資本の社会的所有

も擬制資本の私的所有からきりはな

てはいない。後者の経済的実現は株

式会社の所有の経済的実現にかかっ

る。当該株式会社の事業のすすめ方

にたし、する株主の物費的関心はこ

によって客観的に規定され

ウエッブサイト:-------http://www.pdffind.com/pdf/brfgt/

ファイル情报です »

时间(じかん)を発表した:2010-01-10   ファイルサイズ:0   フォーマット:pdf ファイル
このファイルにダウンロード Title 株式会社における所有 :「所有と経営の分離」論ノート