「文明間の対話」というテーマについて論ずるときに ...

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International Conference
on the Dialogue of Civilizations
Closing Session:
Understanding Different Civilizations: Towards an Active Inter-civilizational
Dialogue

Takeshi UMEHARA
 

「文明間の対話」というテーマについて論ずるときにまず問題になる書物は、サミュエル・ハンチントンの『文明の衝突』であろう。ハンチントンはこの書物で、現代世界の文明として八つの文明を挙げた。西欧文明、東欧文明、アラブ文明、アフリカ文明、中南米文明、中国文明、インド文明、日本文明である。この文明の分類において、ハンチントンは多くアーノルド・トインビーの学説に従っているが、彼はまたトインビーとともに文明の背後に宗教があると考えている。
 しかしハンチントンの主張の独自性は、イデオロギーの対立の時代はすでに過ぎ、文明の衝突の時代が始まっているということを強調した点にある。つまり国際政治学者ハンチントンはトインビーの文明理論を国際政治学に応用し、現代の最大の政治的危機が文明の衝突にあることを警告したといえよう。
 このハンチントンの教説は現代世界の危機の診断としてはかなり正確である。現代においていろいろな国で起こっている紛争は、文明あるいは宗教の衝突であることが多い。たとえばコソボで起こったこと、パレスチナで起こったこと、そして東ティモールで起こったこともまさに文明の衝突である。そして第三次世界大戦が起こるとしたならば、それは西欧文明とアラブ文明あるいは中国文明の間に起こるであろうという予測も決して間違ってはいまい。
 ハンチントンの真意は、現代における文明の衝突を警告し、その衝突を回避するための文明の対話を要望していることにあると思われるが、彼は衝突を必然のこととして考えているので、この書がかえって文明の衝突を激化するという面もあることは否定できないであろう。
 われわれ日本人はこの書を読んで、二つの感想を抱かざるを得ない。一つは日本文明の重視である。ここでハンチントンは日本文明が中国文明及びインド文明とは異なる文明であることを明言している。この見解もトインビーに従ったものであろう。ハンチントンは中国文明の背後に儒教があり、インド文明の背後にヒンズー教があると論じているが、日本文明の背後にある宗教についてはっきり論じていない。これは必ずしもハンチントンの理論の欠陥ではなかろう。日本文明の根底にある宗教思想がどのようなものであるかを明確にするのはむしろ日本の哲学者の義務であると思うが、私をはじめ日本の哲学者はそのような努力を怠っている。
 私は近くハンチントンの投げかけた問いに答えたいと思うが、このような日本文明の重視についてはハンチントンに感謝するとしても、近代日本の政治ついて、この書には過小評価があることは間違いない。日本が開国した明治維新以後、日本は絶えず世界の最強と思われる国と同盟してきた。最初は大英帝国、次はナチスドイツ、次はアメリカ合衆国と、いずれも世界最強の国と思われた国であった。そしてハンチントンは言う。中国が強くなれば、今度は日本はアメリカを離れて中国につくであろう。そしてもしアメリカと中国との間に戦争が起これば、日本はその間に立ってうろうろするにちがいないと。
 私はこの日本の政治に対する過小評価に疑問をもち、彼との対話の機会に、もしもアメリカと中国との間の文明の衝突が戦争に発展するような場合、日本はその間に立って調停の役割を果たすことができるのではないかと問うたが、ハンチントン氏はその問いに、「梅原先生が首相になられればできるかもしれませんが」と答えた。
 私は最近の首相、特に小泉首相のすることを見ていると、日本という国は対立を激化することには役立っても、それを調停することはとてもできないと思い、この点でもハンチントンの理論を認めざるを得なかった。
 私はハンチントンが世界の文明を八つに分類し、そこに衝突が起こる可能性があることを指摘した点において彼に敬意を表するものであるが、彼の歴史理論には時間的な文明の発展及び衰退の問題が論じられていないように思われる。この点においては、ハンチントンの師にあたるトインビーのほうがはるかに重要な問題の指摘を行っている。
 世界に八つの文明があるにしても、この世界を一つにしたのは西欧社会の生み出した科学技術文明であることは否定できない。西欧社会は、科学技術文明を生み出すことによって自らも世界に例のない豊かで強い国家をつくったが、その科学技術文明を使って世界を一つにしたのである。もはやいかなる文明も孤立して存在することはできず、しかも自らが他の文明と並んで生きていくためには科学技術文明を採用せずにはいられない。
 この意味において、現代の世界の文明は科学技術文明という共通な文明をもっていることは否定し難い。しかしこの科学技術文明というものには明と暗の二面があることが二十世紀の後半になってやっと多くの人に気づかれるようになった。十七世紀から二十世紀前半までは科学技術文明は主として明の部分だけを人間に示したが、二十世紀の後半から二十一世紀になると、暗の部分を露骨に示すようになった。この暗の部分は人類の未来を脅かし、人類を滅亡させるかもしれない。したがって科学技術から明の部分のみを引き出し、暗の部分をどのように克服するかに今後の人類の知恵はかかっているかのように思われる。
 少し前まで、人類は進歩の哲学を謳歌していた。人類は共通に遅かれ早かれ一つの進歩の歴史を進む。その進歩についての考え方はヘーゲルとマルクスとデューイでは各々異なるが、彼らはやはり科学の発展が人類に無限の幸福をもたらすことを一様に信じていた。社会主義国家も資本主義国家もそれぞれ思想はまったく対立するが、進歩の思想を信じていたことはまったく共通である。
 しかしこの科学技術の発展に対する無条件の信頼はむしろ危険である。人類の科学技術の発展の成果が、日本の広島と長崎に落とされた一挙に数万人を殺す原爆という殺人兵器に示されたとするならば、人類というものはいかなる動物にもまして野蛮で愚かな動物といわねばならない。原爆にはさらに改良が加わり、今や一発の水爆で人類そのものを抹殺できるような武器が発明され、そのような水爆をもっていることが世界の大国のしるしであるとすれば、いったい文明というものは何であろうか。
 核兵器の問題以上に厄介な問題は環境破壊の問題である。たしかに近代人は、自然を客観的な法則として認識することによって自然を自己の意思のままに改ざんし、人間の生活を豊かにし、便利にした。かつて近代科学技術文明の原則を示したたルネ・デカルトは、やがて自然は奴隷の如く人間に忠実に仕えるものとなろうと言ったが、近代文明の世界的な広がりとともに自然は急速に人間の奴隷となった。自然征服は農業が起こった約一万年前に始まったことであるが、この自然征服の運命は近代になって自然科学と技術の発展によって完成されたのである。
 人類の自然征服という歴史がほぼ完成されたのは二十世紀であると思うが、この二十世紀にはまたその反対の現象、つまり自然の人間に対する復讐が起こった世紀でもある。それはたとえば森林の喪失、砂漠の拡大、地球温暖化、オゾン層の破壊、酸性雨などの現象の形で起こっているのである。この過って奴隷にされた自然の復讐はいたるところでさまざまな形で起こっていて、もはやその対策を立てようがないというありさまである。しかるに近代文明の与えるさまざまな恩恵に慣れている国々はこのような自然の復讐に対してあまりにも鈍感なのである。
 この問題にもっとも鈍感な国はアメリカであり、その次に鈍感なのは日本であると私は思うが、このような態度が京都議定書問題においてはっきり表われているというべきであろう。近代文明を創出したヨーロッパ諸国はその文明の欠陥を知ることにも敏感であろう。しかし科学技術文明という文明を採用することによって世界で第一あるいは第二を誇る豊かで便利な社会をつくり出したアメリカや日本は、その文明に対する楽天的信仰を捨てきれず、この問題に驚くほど鈍感なのである。
 科学技術文明はこのような核の問題、環境破壊の問題とともにまだ大きな問題を抱えている。それは人間の内面性の崩壊ということである。科学技術文明は多く宗教を否定した。ヨーロッパにおいてはキリスト教を、中国においては儒教を、日本においては仏教を否定した。しかしドストエフスキーが指摘したように、神が死ねばいかなる悪も許され、宗教がなくなれば道徳がなくなるという精神の運命を現代の人間は免れることはできないように思われる。
 このような問題が先進国で、たとえば青少年犯罪や性道徳の混乱、高級官僚の道徳的退廃などによって表われている。このように考えると、たしかにハンチントンの考えたように、世界にはさまざまな文明があるが、科学技術という文明を採用しないかぎり各文明は生きていけないとすれば、このような科学技術文明の暗い面を各文明はともに克服しなければなるまい。
 私は、近代文明の根幹に大きな誤りがあると思う。自然は決してわれわれの奴隷ではなく、われわれの母である。母を奴隷と間違えたのは近代文明の大きな誤りである。このような誤った哲学を克服しないかぎり近代文明の病は癒えず、遠からぬ将来、あるいは五百年後、千年後には人類は滅亡にいたらざるを得ないであろう。
 文明間の対話は、このような人類共通に襲っている危機に対して各文明がいかなる治療薬をその文明の体内にもち、それをどのように人類共通の財産とするかを真剣に議論することから始めなければならないと私は思う。しかしまだ人類はこの問題の重要さに十分気がついていないように思われる。私も怒れるソクラテスの徒として、今後の人類の未来に警告をし続けていきたい。

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